「手間を省くと、誠実に仕事をしていない?」

就職活動、転職活動をしたことがある皆さんは、履歴書は手書きでしたか?

 

堀江貴文さん、手書きの履歴書は「やめて欲しい」(ハフィントンポスト)

 

私は新卒の就職活動の時だけです、手書きで提出したのは。

転職は数回してますが、全てPCで作ったものを印刷していました。

それが理由で落とすような企業には入らなくてよかったと、心底思っています。

手書き推奨の理由はよく聞きます。

  • 丁寧さが字に現れる(あ、はい)
  • 昔から履歴書は手書きと決まっている(白目)
  • 履歴書をかく程度の手間を惜しむような人は、仕事もいい加減でしょう(根拠なし)

もっと見るとこあるでしょうに…。

 

手書きに代表されるような「非効率重視」という感覚は、特に珍しくはありません。

 

例えばスーパーに行ってみれば、「手間ひまかけて」という文言が食品のパッケージに並ぶ。

営業において「顔を出すことが大事」は真理だ。

あるいは病院。医師の診察時間が短いことにクレームを出す人がいる。「ちゃんと見ているのか」と。

 

手間をかけているものは良いものだ、

あるいは、手間をかける事自体に価値があるのだ、

という認識は広く、深く根付いており、果たしてそれは手間をかけなければいけないものなのかを疑い、改善しようとしなくなる。

 

子貢が漢水の北を旅していた時、一人の老人が畑で仕事をしているのを見かけた。老人は灌漑用の水路を掘っていた。

老人は井戸に降りて、桶いっぱいの水をかかえるようにして来て、その水路にあけているのであった。その労苦が大変なものであったのに比べて、その成果は実に惨めなものであるように見えた。

子貢が言った。

「一日に100の水路に水を引くことができて、しかも労苦はわずかで済む方法がある。その方法を聞きたくないか。」

すると、その百姓は立ち上がり、子貢を見て言った。「で、それはどんな方法ですか」

子貢は答えた。「前を軽くし、後を重くした木の梃子を使うのだ。そうすれば、水が自然に吹き出すように早く汲み上げることができる。これはつるべ井戸と呼ばれるものだ。」

すると、老人の顔に怒りの色が浮かび、老人はいった。

「機械を使う者は自分の仕事を機械のようにやる。そう師が言うのを聴いたことがある。自分の仕事を機械のようにやる者は心が機械のようになる。胸に機械の心を持つ者は純真を失う。純真を失った者は魂の奮闘に自信がなくなる。魂の奮闘に自信がなくなるということは誠実の感覚に合わないことだ。わたしがつるべのようなものを知らないのではない。それを使うことを恥としているのだ。」

 

人は技術の変化で自分の認識が脅かされると、それに頑強に抵抗します。

「AI活用」

「オートメーション」

「ロボット化」

…人間のアイデンティティを脅かすと囁かれているものの一部です。

まずは変化しないように拒否するんですね。

技術が進歩しても、人間の認識はそれほど速く変化しないものです…変化できないと言ったほうがいいかもしれません。

改革に必要なのは「変化できない者の認識」を理解して、彼らに対してどうするのか…

日本が遅れていくのは、ここが問題なのでしょう。

 

難しい…

「お客様の9割以上が他の清掃、
メンテナンス会社さんからの
乗り換えです」